バイトで「ありがとう」を言う必要もないし、いってもらう必要もないという店員がいるという。つまり、お金をもらって物を渡す。処理をする。機械的でいい。だからありがとうと言う必要性を感じないし、言われる必要もないという。確かにスーパーのレジで「ありがとう」と言う客も少ないし、店員もマニュアルどおりの「ありがとうございました」だ。
お父さんは自分の作った製品を買ってもらうのに苦労している。売り込みの電話をして断られるのはあたりまえ。そんな中で、お父さんの作った製品にこめた意味(意図した価値)に共感して「これはいいね。ひとつ買ってみよう」というお客さんにはおもわず「ありがとうございます」と言葉が出る。そして何人かのお客さんは「いやあ、あれいいね。使ってみてよかったよ。仲間にも宣伝しといたよ。ありがとう。」と言ってくれる。 お客さんからも「ありがとう」と言葉が出るのもおかしなことではない。
「ありがとう」ということが無意味と感じるバイトの子は、なぜその職につくことができたかを考えていないからかな。きっと彼にとっては仕事は学校や宿題のように存在して、お金をもらえるのはあたりまえなのだ。 しかし世の中いつも同じとは限らない。実は仕事の場は確実に減っている。
ゼロベースで考えてごらん。
「雇用の安定」は「働く場があること」のあとに来る順番なのだ。
「働く場があること」は「価値を認めて共感してくれる人がいる」あとにくる順番なのだ。
「価値を認めて共感してくれる人がいる」は「適切な言葉で価値を広めようとする人がいる」あとにくる順番なのだ。
そして「適切な言葉で価値を広めようとする人がいる」は「移り変わる時代の中で見えなかった価値をかたちにしようとする人がいる」あとにくる順番なのだ。
能動的に理想を掲げてリーダーシップをとる人がいたから流れは始まった。
また、お客さんが「ありがとう」と言ってくれるのも、「いいものが見つかってよかった」とか「お店がいつもどおりやっていてくれて助かる」ということかもしれない。従業員の人も病気や急な用事もあるだろうに、きちっとローテーションを守って店を開けてくれる努力に感謝するという意味。
バイトの子は自分の都合だけで、店を開け続ける店長の努力は見えていないだろう。もしかしたら君に感謝しているわけではない。 勘違いしていないか。
そんな子は選ばれない日も近い。自分で選ばれる機会を狭めていることにも気がついていないだろう。店長の立場に立たない限りは。 意識して「自分が教える立場だったらどうするか」と、いつも考えることができるかどうかだ。
「感謝」の反対は「あたりまえ」
「愛」の反対は「無関心」